読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ジャパニーズ・リテラシー

第三者と違うことが言えるのは自分しかいない。

 

数年前、私が中学3年生の家庭教師をやっていたときのこと、

生徒が3年生になったばかりの時期にこんな会話をしました。

 

「先生、俺はこんな偏差値が高い高校は無理だよ。だから学校の先生にもこの高校に行きたいってこと、まだ相談してない」

 

「なんで、無理だって思うの」

 

「だって、学校の先生はそういうと思うから」

 

「学校の先生はそう言うかもしれない。いまの君の成績をみる人はだれでも言う。しかも、みんな自信満々にそう言ってくると思う。でも、ほかの人と唯一違ったことを言えるのは、いま現時点では君しかいない。先生やみんなの考え方を変えられるのは君しかいない。恐がっていちゃだめだ。

 

そのあと、この生徒は、学校の先生をはじめ、たくさんの大人に挑戦状をたたきつけ、いろんな人たちに担ぎあげられながら、勉強をがんばって見事志望校に合格しました。

 

数年後、私は就職し、たくさんの大人にかこまれるようになりました。

 

いちばん驚いたのは、この生徒のように、みんなこうこう思っているからということで現実に起きもしていないことについて好き勝手に講釈を垂れて、自分の将来や自分の可能性についてまるごと投げ捨てているような大人がほんとうに大勢いるということです。

 

できるからやるんじゃなくて、やるからできるようになるんじゃないの。

 

自分のことをたいして知りもしない人に自分の大事なことを依存して、その人がだめっていうからやらない。その人がだめって言うことそれ自体が自分の行動を殺す根拠として妥当じゃないにもかかわらず、操作されることを許している。

 

最近、そういう傷つくことを過剰に恐れて、コミットする人を無条件に信用する人とても多くないですか?

 

土壇場での刹那的意志決定では、お任せ下さいというほかないでしょう。土壇場でもない状況下で、信用やリーダーシップという言葉を用いて人様の意思決定を操作しようとする卑怯な人間がたくさんいることも承知しています。

 

ただ、そういったタイプの人に対して批判する方法が昨今の世間ではシェアされていません。

 

空気をつくってくる人に対して、水を差す方法です。(このあたりは山本七平氏が詳しい)

 

外野からなにを言われてもなにくそと思って猛進する馬力としてのジャパニーズリテラシー、これをひろくシェアする啓発の機会がなければ、

日本は誰かしら声の大きい人が醸成した空気に飲み込まれている個々人を窒息死させてしまい、さらなる生きづらさを醸し出してしまうのではとおもっています

 

自分の言葉

 10月19日、2015年2月から6月まで記していた10万文字ほどのメモがicloudのトラブルで消去されてしまった。自分の言葉で紡いできた言葉がなくなってしまったのは自分にぽっかり穴があいたようでさみしく思う。一瞬一瞬をかみしめ、味わうようにして自分の考えや出来事・人事(ひとごと)について記述した。それは、自分の人生をもがき理解しようとした証でもあり、戦ってきた誇りでもある。自分の言葉で自分に対して贈られる言葉には最高の説得力があると考えているので、自分の所感を顧みたり再構築したりする最高の素材を無碍にしてしまったのだ。